メデジンのComuna13へ/アートや観光は貧困から脱却する鍵になりうるのか

ギャングたちと政府軍が争っていた日、あちこちで銃声が聞こえてここで普通に暮らしている人々の生活はただ身を潜めて事の成り行きを見守るだけだった。

5歳の男の子が家の中にいて、彼の腕に流れ弾に当たった。
おばあちゃんが撃たれた彼を発見してすぐに手当てをしたが周りで銃撃戦が起こっているのかどうやって病院に行けただろうか。

でもこのおばあちゃんは白い旗を掲げて、5歳の子供を抱いて走って行ったそうだ。どれだけ勇気がいったことだろう。

こんな環境で育つ人々はどんな思いで暮らしていたんだろうか。

数十年前まではメデジンは世界で1番恐ろしいと言われた町だった。

メデジンの闇の闇だった町は、今ではアートで溢れる観光スポットに

メイン通りがずっと一本道になっていて、その周りにはレストランやお土産屋さんがずらりと立ち並ぶメデジンの一大観光地になっている。

でもやっぱりスラムはスラム。家はめちゃくちゃホームメイド感出てるし、屋根なんか板を渡しただけ。
私が今暮らしているエンビガドエリアとは全然違う。

ちょっと前までのComuna13

1980年から90年代

このあたり一帯はドラッグギャングで有名な、パブロエスコバルによって支配されていた。

1993年に44歳で彼が死んだ後も、まだドラッグを売買する世界にも有名な中心地だった。

2002年10月16日

2002年に大事件が起こった。
政府が千人以上の警察官やヘリコプターなどを使って、このエリア10万人が暮らす場所を攻撃した。”オリオン作戦”と呼ばれる。

治安の悪く、ギャングの巣窟でドラッグ売買やありとあらゆる犯罪行為にまみれたComuna13をどうにかしようとしたのか。

このことで9人の方が亡くなり、その中の3人は子供だったそうだ。負傷者は100人以上。

そんな闇の歴史が残るComuna13だが、元々はコロンビアの長く続いた内戦で逃げてきた人々が作った町だったので住民全体が貧困なのも仕方のないこと。

そんなお金のない若者たちを使って、ギャングの親玉エスコバルが彼らにドラッグなどを売買させていたことも”貧困”という事情があるから仕方なく。という背景があるわけで、

犯罪に手を染めなくても生きていけるのなら真っ当に生きていきたい。と思った若者も、少なくなかったんじゃないかなと思う。

ぶらぶら歩いていると一人の黒人の若い男の子が、私に声をかけてきた。

どうもビニール袋に入った靴下を売っているらしい。

靴下は特に必要ないんだよねと言うと、生活に困っているから少しでいいからお金を恵んで欲しいと言われた。

少しだったけどコインを渡して、私の拙いスペイン語で少しだけ会話をする。

彼はここで育った地元民。名前を何度もなぜか名乗ってくれてブライアントというそう。

絵を描いたりしないの?と聞くと、絵は描かないけど音楽をやっているよ!と言って画面がバキバキになったスマホを取り出して、音楽をかけ出した。

そして見た目通りのラップを歌い出して、お金を恵んでくれてありがとうみたいな詩だった。

こういう若者たちは、ちゃんとした仕事に就くのが難しいのか?いろいろ聞きたい事もあったけど、もっとスペイン語を勉強しないと会話にならない。

次に行くときには説明してくれるツアーに参加して、勉強したいと思います。

今回は、マイペースに写真を撮りたかったので単独。

ちょっと動画も撮ってみましたよ。

色々なことを考えさせられる一人旅でした。

Comuna13の場所

Comuna13の行き方

バスに乗って、5分で到着。グラフィティに行くと言えば、運転手が教えてくれるし、ほとんどみんな降りるのがその場所なので、明らかに観光客に見えるならば誰かが教えてくれるし、終点だから迷うことは絶対ないと思う。

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