遂にマヤ文明最高とも謳われるパレンケ遺跡へ!アグア・アスールからの行き方/泊まったホテル

マヤ遺跡最後の目的地だったパレンケ遺跡。

ここまで有名で、人々の心を惹きつけて止まない遺跡はないのでは。マヤ遺跡の中では、個人的には2番目に好きな遺跡になった。一番はウシュマル遺跡。

しかし、さすがに面白いのは、パレンケはパカル王という王様が有名で人気なこと。

若干12歳で即位する事になり、80歳まで生きて長期的にパレンケの歴史の王だったパカル王。

彼の石碑に、今でも解明されていない謎のデザインが施されていたり、埋葬されていた際に身に付けていた装飾品が全部翡翠でできていたり、と興味深い事実が沢山。

そして、メキシコシティの国立人類学博物館で、念願のパカル王のお面も見れた!さすがに、とても綺麗でうっとりしてしまうくらいのもので、しばらくお面の前に立って眺めていたが、パワーがあるというか、なんというか。不思議な気分になった。

パレンケ遺跡の真実 Palenque Ruins Facts

パレンケ遺跡の主役中の主役、パカル王 King PAKAL

彼の名前はK`inich Jahahb` Pakal。

”パカル王”または”パカル王1世”と呼ばれ、西暦615年~683年まで生きたと言われている。

パカル王がパレンケの王に即位した時は、パレンケの町は大荒れで退廃していた時代だった。しかし、彼が即位してから時間をかけてパレンケの復興にあたり、遂には一番強大な力を持つ町にまでなった。

また、パカル王が亡くなった時に、たいそうゴージャスな石碑が作られ、最高級のお墓が作られたことでも有名だ。

彼のお墓が埋葬されていたのは、Temple of the Inscription(碑文の神殿)と呼ばれる、エントランスを入ってすぐ現れる大きなピラミッドだ。

パカル王の生前のパレンケ Before King Pakal was born

マヤ遺跡に残る石彫レプリカ

というのも、パカル王は自分自身でお墓を作らせて、彼の威厳を主張ようだ。

彼の偉業や、苦悩の数々はパレンケ中の色々な場所で、彫像として見る事が出来る。

パカル王が生まれたのは西暦603年3月23日。パカル王の母Sak K`uk(サク・クック)はパレンケの王家の血を引く人だった。そして、パカル王の父は、母よりも身分の劣る者だったという部分も興味深い。

パカル王の幼少期は、きっと苦難の連続だったのだろう。

パレンケは危機的状況だった

彼が生まれる前や生まれた時代は、パレンケは大きな問題を抱えていて、政治的にも経済的にも厳しい状況にあった。

その頃、カラクルムをベースとする、強靭なカーン王朝からの攻撃を何度か受けていた。一度目は599年だ。そのせいで、パレンケの王族が逃げて行ってしまった事例も発生。それは大変。

611年にも再度攻撃を受ける。

この時も、パレンケは大打撃を受け、町が壊滅状態に陥り、当時のリーダーは追放させられた。

翌年の612年にはIk` Muuy Mawaan(イク・ムイ・マワーン)によって再度パレンケが一つのグループとして機能するようになったが、また崩れ、その後にパカル王の両親が政権を取る事になった。

パカル君がパカル王になる時

PakalImage3 cropped.jpg
De PakalImage3.jpg: A.Skromnitsky (A.Skromnitsky (talk derivative work: Einsamer Schütze (talk) – PakalImage3.jpg, CC BY-SA 3.0, Enlace

パカル王が彼の母親から直接冠を受け取り、王になる瞬間を描いたレリーフが飾られている。

この歴史的瞬間は、615年7月26日。この時パカル少年はまだ12歳という若さ。不安とかあったのかな。

さすがに若過ぎる王なので、しばらくは両親が実権を握っていたという。

パレンケの建設ラッシュ Build the City of Palenque

マヤ遺跡の一つパレンケ遺跡のピラミッド

そして、平和とは程遠い闘いの時代が幕を開ける。

カーン王朝は、パレンケの侵略を忘れてはいなかった。数年に一度は大きな戦争が起こった。あちこちで混乱が起き、平和といえる時間はなかった。

しかし、その中でもパカル王はパレンケ遺跡の建築にも力を注いだ。650年前後には建設ラッシュがあり、大きくパレンケは変貌を遂げる。導水管を作り(今でも機能しているものもあるというので、それもまた凄い)、宮殿を作っていった。

その他にも、Red Queen(赤の女王)の名で有名なピラミッドの建設も行った。このピラミッドは、パカル王妃のIx Tz`ak-b`u Ajawの為のもので、埋葬されていた女性もパカル王妃だったという説が有力。

パカル王のお墓 Tomb of King PAKAL

メキシコ チアパスにあるパレンケ遺跡のレリーフ
Palenque

パレンケ遺跡の興味深いお話の一つは、何と言ってもパカル王のお墓の謎。

パカル王が亡くなったのは、683年7月31日。その時は、まだ碑文の神殿には埋葬されていなかった。

幸運にも、パカル王のお墓は略奪者には発見されずに、遂に1952年に考古学者のDr. Alberto Ruz Lhuiller(アルベルト・ルス)によって発掘された。

パカル王の身体は、神殿の奥深くに埋葬されていて、棺桶が埋葬されていた部屋の壁には9体の兵士の絵が描かれていた。

その9体の兵士の絵は、死後の9つのレベルの世界を表現している。

中でも素晴らしいのは、パカル王が安置されていた棺桶の蓋のレリーフである。

パカル王の棺桶の蓋に隠された謎

Pacal the Great tomb lid.svg
De User:Madman2001 – Made it myself based on several drawings References for this description (or part of this) or for the depiction in the file are not provided. Relevant discussion may be found on the talk page., CC BY-SA 2.0, Enlace

このレリーフを横にすると、宇宙船を操縦している絵に見える事から、マヤの人たちは宇宙人だったんかないか。なんていう説もある。

まさか。と思って、横にして見てみたら、確かに言われてみればそう見えなくない。ちょっと横にして見てみて欲しい。

このレリーフが表しているのは、死後のパカル王が神様(God Unen K`awill)になって蘇るといったもの。

大きな木が描かれているのは、マヤ文明では木はあの世とこの世を繋ぐ象徴的なものだからだ。

パカル王の顔に被せられていた翡翠のマスクや、首や腕の装飾品も、大変素晴らしいものだ。

パレンケにこの石の棺のレプリカが展示されている場所が、パレンケの外に出たすぐの博物館に展示されていた。とても見事なレプリカだったので、見る価値は十分にある。

更に、メキシコシティにある考古学博物館にも展示があって、そっちは本物かな?ちょっと分からないけど、棺の中にこうやって発見されたであろう姿のパカル王のレプリカもあって、おおお~!と思わせてくれた。

アグア・アスールからパレンケまでの行き方 How to get to Palenque from Agua azul

アグア・アスールから、タクシーを使ってパレンケ行きのバスが来る場所の交差点のところまで行く。

1人25ペソ。すぐには来なくて、しかも何台か過ぎて行ってしまったコレクティーボは人がいっぱいで乗れなかった。

タクシーなら1人50ペソで行ってくれるらしいけど、コレクティーボは1人40ペソらしい。

ほんの10ペソしか変わんないけど、乗り合いタクシーだと途中で別の人を乗せたりして、ギューギューに詰め込まれて案外快適じゃないのは嫌っていうほど知っている。だからこそ、長距離移動こそコレクティーボかバスに乗りたい。

散々待って、お腹が空いたからお店で買ったバナナを頬張っていると、そんなタイミングでやってくる。

大きな荷物を天井の上に乗せてくれて、いざ出発。乗り換えとかない分、楽な旅だ。

パレンケでの宿泊 Stay at Palenque

ホテル カシュラン Hotel Kashlan

セントロのど真ん中にあって、メルカドも近いし、スーパーもあるし、酒屋もある。

とても便利な立地なのがありがたいのと、パレンケに行くコレクティーボがすぐ出口を出て1ブロック先から出ていたので、それもまた便利だった。

マヤ遺跡の旅ブログ記事

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。