台湾の歴史を学ぶと、中国との摩擦が見えてくる【第一弾】

なぜ台湾の人は親日と言われるのか。なぜ中国との摩擦があるのか。
以前から疑問だった。
台東に行った時に、地元の人から話を聞くことができた。
今この時代でも、先住民と中国から来た人々との問題もまだある。と。”台湾人”のボーダーも分からないし、この問題は日本にだってある問題だ。混血が進んで、純潔の何々人なんて存在しないかもしれない。
歴史を辿ると、謎が解ける。ことが多い。
今は既に台湾を出発してベトナムにいますが、知らなかったお隣の台湾の国をもっと探りたくなった。ので、勉強がてら歴史を辿った。
台湾の初期の初期
台湾の主要民族は、中国からの漢民族が96.7%,そして原住民が2.3%と、ほとんどが中国からの移民国家。
歴史をさかのぼると、中国の隋の時代(603年)に書かれた文献に、台湾への探検の記載がされている。原住民も、もともとはフィリピンやインドネシアから渡ってきたという説もある。
彼らが、各地に別れてグループを作り暮らしていた。
そして、ヨーロッパの船が初めて台湾に到着したのはポルトガルだった。ポルトガル人は、美しい緑溢れる台湾を見て、
“Ilha Hormosa(麗しの島)”と呼んだ。
それだけこんな島に美しい自然があってびっくりしたんでしょうね。
あまり知られていないが、台湾を統治していた初めの国はオランダ。オランダの支配は1624~1662年まで続く。
中国からの支配が始まる
その後、1662~1683年まで漢民族の初めての支配となった。
これが、鄭氏政権と呼ばれる。この頃栄えたのが、台南の辺り。
なので、台南には古い歴史的文化財が数多く残るわけだ。しかし、この政権は短命に終わってしまう。
別の中国からの支配
そして次に政権を取ったのは、中国から来た清朝。
清朝が鄭氏政権を倒し、台湾の支配を始めたのが1683年。
新しい清朝統治下では、台湾という小さな島の領土はあまり重要視されず、統治自体はかなり消極的だった。
彼らは、中国から来た漢民族を優遇して、先住民の生活域を圧迫していった。
この頃になると、中国からの移民が大量に来て、もともと台湾の首都だった台南から、開発が北に流れて台北へと経済機能が移っていく。
移民の漢民族と先住民とのミックス
中国から台湾に行けなくなる”海禁策”がこの時代に発行された。
以前から男性のみ台湾に渡ることを許されいたが、密航もかなり多かったんだとか。
しかも、海賊や貧乏な人が多かった。マラリヤやデング熱なども病もあり、台湾内は荒れた時代だった。
更には、女性の台湾渡航が強く禁止されていたために、台湾に漢民族の女性が少なかった。
結果、漢民族の男たちは原住民の女性を娶り、混血が爆発的に進んだ。
日本統治が始まる 1895-1945年
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始まりは日清戦争後、下関条約により清朝から日本になった。
この時代に「農業は台湾、工業は日本」と国の機能を分担することで、鉄道などの交通網が発達し、製糖業と共に台湾が発展していった。
そして、近代化を目指して台湾内でも義務教育制度が施行され始め、就学率はアジアの中では日本に次ぎ2番目に高い水準となった。大量の台湾人が日本へ留学した。
そんな中でも、台湾が日本に併合されるのに反対した住民もいた。
1895年に、台湾が大日本帝国になる時、日本は「匪徒刑罰令」を発行して、反対した台湾人を3,000人も処刑したとされる。
長くなっちゃったので、続きは次のポストにします。
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